About

「私のため」の幸せな人生を
歩み出したい方のライフコーチ

おのゆみこ


1985年、福岡生まれ。一人っ子。毎晩、両親が怒鳴り合う家庭で過ごす。
7歳の時「あなたがいなければ、お父さんとは別れている。」と母。
自分は母の重荷だと思い込む。

早く自立するため勉学に励むが、プレッシャーで高2で不登校に。
単位制高校に再入学、4年かけ高校卒業、大学進学。

システムエンジニアとなる。
連日深夜残業するも、成果無し。

役立たずの自分が不甲斐なく毎日泣きながら帰宅。
26歳で結婚。3児の母に。
「自分とは違う人生を」と育児書を100冊以上読破するが、
子供は揉め事を起こし、連日学校から電話。

うまくいかない人生を変えたいとライフコーチに出会う。
「今、どんな気持ち?」とコーチからの問いで、

自分の気持ちを無視していると気づく。
一人旅行、カフェなど自分の心地よさを選ぶことで充実感を得られるように。
自分の気持ちと等しく子供の気持ちを扱うことで、

子供の揉め事も無くなる。
現在は、月1の家族キャンプを楽しみ、

フルタイムで働きながら、ライフコーチングを提供。
クライアントは、転職、独立、イライラしない子育て、

念願の一人旅を実現している。


1985年、福岡生まれ。一人っ子。
毎晩、両親が怒鳴り合う家庭で過ごす。
7歳の時「あなたがいなければ、お父さんとは別れている。」と母。自分は母の重荷だと思い込む。

早く自立するため勉学に励むが、プレッシャーで高2で不登校に。単位制高校に再入学、4年かけ高校卒業、大学進学。
システムエンジニアとなる。
連日深夜残業するも、成果無し。
役立たずの自分が不甲斐なく毎日泣きながら帰宅。
26歳で結婚。3児の母に。
「自分とは違う人生を」と育児書を100冊以上読破するが、子供は揉め事を起こし、連日学校から電話。

うまくいかない人生を変えたいとライフコーチに出会う。「今、どんな気持ち?」とコーチからの問いで、自分の気持ちを無視していると気づく。
一人旅行、カフェなど自分の心地よさを選ぶことで充実感を得られるように。自分の気持ちと等しく子供の気持ちを扱うことで、子供の揉め事も無くなる。
現在は、月1の家族キャンプを楽しみ、フルタイムで働きながら、ライフコーチングを提供。
クライアントは、転職、独立、イライラしない子育て、念願の一人旅を実現している。

・2020.10~ 親子コーチング協会認定コーチ
・2022.10~ ライフコーチワールド(LCW)トレーニング 福岡13期・14期修了

・キャンプに行くこと
  *写真はキャンプ場からの景色
・本/漫画を読むこと
(村上春樹さん、岸田奈美さん、おかざき真理さん他)
・カフェタイム

・2020.10~ 親子コーチング協会認定コーチ
・2022.10~ ライフコーチワールド(LCW)トレーニング 福岡13期・14期修了

・キャンプに行くこと
  
*写真はキャンプ場からの景色
・本/漫画を読むこと
(村上春樹さん、岸田奈美さん、おかざき真理さん他)
・カフェタイム

コーチおのゆみこ 自分史

幼少期

1985年 福岡生まれ。父、母、私の三人家族。一人っ子。
生まれてくるのが女の子と分かって、父は「女か…」と残念そうに言ったそう。
母は女の子で良かったと言ってくれたものの、自分が男の子に生まれていたら、家族の仲も違うのかなと思っていた。

家庭環境

父と母は毎晩喧嘩していて、物心つく頃には、父母の仲の悪さを感じて、ただただ悲しく思っていた。
父と母の間に漂う空気が張り詰めたような冷たい感じを察知すると身体が硬くなって、どんな顔をしたらいいか分からず、息を潜めてただ置物のように座っていた。
そんな中で育ったからなのか、幼稚園に入ってすぐの面談で先生から「表情の乏しい子」とに指摘を受けたそう。
ただ、小学校にあがるころには表情のことで指摘されるようなことはなく、笑顔で過ごせるようになっていた。

職場のバックヤードで待つ幼稚園時代

母は私が2歳になった時から働き始めた。
私の一番古い記憶は、真っ暗な道を母に背負われて歩く記憶。
保育園の帰り道だと思う。


最初は保育園だったが、4歳から幼稚園に行くようになった。
幼稚園は母の職場の近く。住んでいたところからはバスで30分。幼稚園が終わると母の職場のバックヤードで静かに待った。
空気を読むことが当たり前になっていた私は、特に誰かに指図されたわけではないが職場に行って母の仕事を邪魔してはいけないと感じていた。

(子どもを産んでみて思ったけど、4歳の子供がお菓子やテレビがあったとしても数時間静かに待っているってなかなか出来ることじゃない。当時の自分の必死さを感じます。)

当時を振り返って、私がじっとしていられたのは、働く母をかっこいいと尊敬していたから邪魔をしたくなかったし、お金のことで色々困ることがあって働かざるを得ないこと聞いていたからだと思う。
また母からは仕事の愚痴も聞いていたし、朝は吐き気がするようで、吐いている姿も見かけていて、そんな母を困らせるなんてできないと思っていた。

そして、母に叱られるのは本当に嫌だった。叱られるとお腹を壊して寝込むくらい。
一人っ子で、母親しか頼る人が居ない自分にとって怒られると張り詰めた時間が続き解決の方法が分からなかった。

だから、静かに待っていた。

父に関しては仕事や趣味で家に居ないことも多く、母からの話で、私は父が母を苦しめていると思うようになっていた。

【小学校時代】

新しい環境での暮らし

小学校は、自宅近くの公立に進学。
幼稚園は母の職場の近くだったから、知っている友達が一人もいない中の学校生活スタート。


鍵っ子として学校生活スタートをした。女は家で家事という文化が残っている時代だったから、専業主婦のお家が多かった。
自分には友達も居ない、家に帰っても誰も居ない。まわりのクラスメイトはお母さんが待ってくれているのに。

初めて人と比べて、寂しさを感じた。

電気のついてない、少し薄暗い家に居るのがイヤだった。
一人で家に居るのは心細くて、母が帰る頃になるとバス停で母を待っていた。

学校でも、うまく馴染めず、小1の間はずっと「おのさん」と呼ばれた。

みんなが〇〇ちゃんと呼び合う中、私だけ「おのさん」と呼ばれていて、距離を感じる。

それでもやっと放課後に遊べる友達が出来て、毎日家に帰るとすぐにランドセルを置いて出かけた。

2年生になる頃には、わざとふざけて明るくふるまうと親しんでもらえることに気づき始めた。
やっと「おのさん」から「おのちゃん」に脱出した。すごく嬉しかった。

優等生としての優越感

小学校に入るまで文字も書けなかったが、学校で学ぶことは純粋に楽しかった。

特に苦労もせず先生の言うことを聞いていればテストで満点が取れた。

褒められるとうれしい。

この感覚を味わったのは小学校に入ってから。

母は読書家で、本ならいくらでも買ってくれた。母の本を読む姿に憧れて、たくさんの本を読んだ。小学校のとき大好きだったのは「チャーリーとチョコレート工場」。
褒められるのが嬉しくて、勉強だけでなく、高学年になると委員会活動にも積極的に参加した。
小6最後の運動会は選手宣誓もして俗にいう優等生という感じの小学生になっていった。

中学受験

4年生から中学受験のために塾に通い始めた。
田舎の小さな小学校では成績が上位で勉強には自信があったけど
塾に入ると自分よりはるかに賢い人がいると気づいた。


でも、勉強すれば私でも追いつけるんじゃないかと自信はあった。

あいかわらず小学校では勉強に困ることは無く、自分の居場所がある感じがして安心する場所だった。

その頃、母は腹痛で寝込むことが増えた。病院を受診したところ難治性の病名を診断され、食事制限が始まった。
卵と野菜しか食べられない母を見ながら何も出来ない自分の無力さを感じた。


母を少しでも安心させようと、小さな自分に出来るのなんてせいぜい勉強することだった。受験を続けるか?と聞かれたとき、一瞬小学校の友達の顔が思い浮かんだ。
でも、なんとなく勉強が出来る自分でいたほうが安心させられる気がして受験すると言った。

母の入院生活も始まり、父方の祖母が面倒を見てくれるようになった。
「あなたは外孫だから。」と小さい頃から言われていた私にとって、祖母は甘えられる存在ではなく、粗相しないように緊張する生活だった。

母もなんとか無事に退院した。寝込むことは多かったけど、家にいてくれるだけで安心だった。

成績が大幅に上がるなんてことはなかったけど、なんとか志望校に合格。
中学から進学したのが近しい親族では私だけだったので優越感もあった。

母を安心させられると思ったと同時に自分の自信にもなった。

親友

とにかく友達がほしいというところから始まった小学校生活だったが、小4くらいから仲良く本心を話せる友人が出来た。
家族ぐるみで仲良くしてもらい、我が家とは違って夫婦協力して過ごしている親友の両親にとても憧れた。


この時の感覚は大人になっていても残っていて、私の結婚した後の家庭の理想像もここから生まれている。

【中学時代】

居るけど居ない友達

憧れの第一志望に入学してすぐ気づいたのが頑張るって恥ずかしいらしいということ。
クラス委員を決めるとき、迷わず手を挙げようとしたけど先に挙げた人を「よっ!優等生!」と茶化すような声が上がった。

小学校までは「やりたい」って積極的に言うことが褒められた。

だけど、ここでは違うらしい。

系列の小学校から上がってきた子たちが幅を利かせる教室の中で、クラスメイトに目を付けられないように気を付けるようになった。

いつの間にか身に着けた自分なりの立ち回り方で友達はたくさんできたけど、心を許せる友達は少なかった。

中学一年生の時、学校からのアンケートで友達を書くように言われた。
誰も書かないと心配されると思い、悩みに悩んで一人だけ書いた。
みんなが自分を友達だと認識している自信が無かったから。

担任との面談でものすごく心配された。

「あなたのことを書いている人はたくさんいるのに。この子もこの子も書いてくれてるわよ。」そう言われた。

安心したけれど、本心を話せる人は居なかった。

両親の仲は相変わらず悪く、夜な夜な怒鳴り合う声が聞こえてきて、家に居ても学校に居ても何となく居心地が悪かった。

部活動

本当は吹奏楽部に入りたかったけど、運動が苦手なことがコンプレックスだった母から「運動部に入ったほうがいい」と言われ、

しぶしぶテニス部に入ることにした。

テニス部には、全てを牛耳る同級生のボスがいた。その子に嫌われると順番にいじめられる。

本当は嫌なのに、自分に矛先が向くのがイヤでうまく立ちまわっている自分も嫌だった。

でも、気が付いたら夜な夜な他の部員から電話がかかってきて、みんなの本心を聞く役回りになってたな。ついつい話を聞いてしまうところは、今の私につながってるのかもしれない。

そんなに好きでもないテニス。

根性だけはあって、やると決めたら練習はさぼりたくなかった。
練習したかいもあって、中学2年生のときは地区大会3位入賞を果たす。
結果を出してみて「もうこれ以上無理、続けられない」と思った。

ボスに嫌われないように立ち回る自分、好きでもない練習をやり続けることが苦しかった。

でも、ラケットもシューズも買ってもらっていた。

これまで自分がこうしたいと伝えたことが少なかった私は、何て言えばいいか散々悩んだけれど、テニスを続ける方が苦しくなっていて、やっとの思いで、テニスを辞めることを母に相談した。

「ラケットもシューズも買ったのに。」少し怒った風に言われた。

わがままを言ってしまった自分が申し訳なく、どうして我慢できないのか自分を責めた。

でも、最終的には「好きにしたら。」と許してもらえ、やっと自分が好きなことが出来るようになった嬉しさと、母の想いを汲んで我慢できなかった自分への苛立ちと両方を抱えながら吹奏楽部へ途中入部することにした。

吹奏楽部

複雑な気持ちで始まった吹奏楽部生活だったが、
希望していたサックス担当になり、同級生たちともすぐに打ち解けた。


人数も少なく、サックスパートが少なかったのでかなり喜ばれた。
やりたいことを始められたという充実感があった。
最初こそ上手く音が出なくて苦しんだけど、音が出せる、楽譜通りに演奏できる、音程を合わせられる等、一つ一つ進歩することが嬉しくもあった。
でも、楽器や演奏に対して自分の知識が付けばつくほど、同じパートの仲間と比べて焦るようになった。


同時期に途中入部して同じパートになった同級生は、最初からセンスがあると評判だった。
いっぽうで、私はセンスが無い。
「あなたが上手になるには、努力しかないわ。」
指導の先生からの言葉。


アドバイスだったが、私にはどうやっても越えられないものがあるように聞こえた。

大きな大会に出場できるような上手な学校ではない。
楽しく自分なりにやることも出来る場所だったが、当時の自分にはそんな風に捉えられなかった。
やるからには上手と言われるようになりたい。一番になりたい。
そんな気持ちがあった。
「センス」という自分が絶対に手に入れられないものと戦いながら、
学校から楽器を持ち帰り、家で週末に練習したり、
昼休みにも練習したり、出来る限りの努力をした。


下手ではない。でも飛び抜けてうまくはない。
やりたいことをやれば、きっと毎日楽しいと思っていた。
一番になれる気がしていた。
勇気を出して飛び込んではみたものの
頑張ってもどうにもならないものがあるということを突き付けられたような感覚だった。でもまだ必死でその現実と戦っていた。


中高一貫の学校に進学したので、中学3年生で引退することもなく
高校でも続けて吹奏楽部に入ることにした。

【高校生時代】

将来の夢

小学生の時に、初めて障害者ボランティアに参加した。
普段は遠出することが難しい障害者と健常者、みんなで旅行するイベント。
そこで、視覚障害者の方の目となって障害物を伝えるだけじゃなく、
その場所の様子を伝える補助をした。


「ありがとう。」って言われたことがすごく嬉しかった。

ボランティアすることで、自分が生きていることが承認されているような気持ちになった。
「ボランティアって自分のためにやってるんだよね。」そう言っているおじさんが居て、小学生ながらに深く納得した。
自分の役に立つ感覚が嬉しくて、高校生になってもずっとボランティアを続けていた。


「誰かの役に立つ仕事がしたい。」

学校では、医学部を目指す人も多く、自然とお医者さんになることで
「誰かの役に立つ仕事」が叶えられるように思えた。
お医者さんになれれば、優等生の自分も保たれる。
母の病気の役に立つかもしれない。
勉強すれば、夢はきっと叶う。
そう信じて、必死で勉強した。
中学、高校1年生と学年上位をキープし、それなりに優越感も味わってきた。
高校2年生、いよいよ大学受験がリアルに感じられるようになってきた。
合格するまで帰れない小テストに緊張し、
定期テストが恐ろしくて仕方が無かった。
周囲も勉強し始め、少しずつ下がっていく成績。
成績が下がる自分を許すことが出来なかった。
母の寝込んでいる日も多く、
「こんなお母さんでごめんね。」と言われると
「そんなことないよ。大丈夫だよ。」と言うしかなかった。
勉強に追い詰められて苦しい気持ちもぐっと飲み込んでこらえた。
家族との悩みなんてなさそうに見える友人たちに、自分の家族の状況を話す気にもなれず、ただただ勉強にしがみつく毎日だった。

高校2年生になったある日、通院して遅刻で学校に行く予定だった。
でも、学校の前に来たらバスから降りるのが怖くなった。
そのまま逃げるようにして家に帰ってしまった。
その日のことはあまり覚えていない。
でも、ただただ泣いていたように思う。

母もどうしたらいいか分からなかったのだろう、学校に行けなくなった私は
すぐに精神科に連れていかれ、うつ病の診断を受けた。
抗うつ薬の副作用で眠たくて仕方がない。
体重も増えた。
寝てるのか起きてるのか分からない日中を過ごし、夜になると目が冴えてくる。
といっても、考えるのは学校へ行けない不安やそのせいで将来がどうなるのかといった不安。

眠れない夜も増えた。

そんな体調の中でも、出来る限り勉強しようと机にかじりついていた。
文字を読んでもほとんど頭に入ってこないのに、このままでは自分の人生はおかしくなってしまうと必死だった。
保健室登校したり、行ける日は教室にも行ったが
季節は春から冬になった。
今思えばたった1年だけど、体感では何十年だった。
何度も頑張ったけど
けっきょく出席日数が足りず退学することになった。
その間に神社に祈祷に行ったり、催眠療法に連れていかれたり、とにかくあらゆる手を尽くしてくれる母に申し訳なさと学校に行けないってそれほど駄目なことなんだという思いでいっぱいだった。

退学して数か月、運よく自宅からバスで通えるところに出来た単位制の高校に再入学。
ほんとは大検を取ってさっさと大学に行きたかった。高校に行けない自分と早くおさらばしたかった。
でも、こんな状態じゃ無理だと母に説得され
少しずつ薬の量を減らしながら学校生活に戻っていった。

こんなに父や母に迷惑をかけてしまった自分が挽回するには、医学部に合格するしかない、
自分のようにうつ病で苦しむ人を助けたい、そんな気持ちも芽生えた。
再入学した高校は大学受験を目指している人向けではない。
授業以外の時間にどうにか自分で勉強するしかなかった。
偶然にも大学受験を応援してくださる先生がいて、授業外で勉強を見てもらいながら頑張った。
応援してくれる、自分を信じてくれる人がいることはとても心強かった。


でも、残念ながらセンター試験で、医学部受験の夢は消えてしまった。

両親に「浪人させてほしい」お願いしたけど、
学校中退したようなやつがと反対を受ける。
ショックで1日中吐き続けた。

それと同時に、一度みんなと同じレールから外れると自分のやりたいことが出来ないんだな。そんな風に感じた。

自分を大切にする

学校に行けなかった間、ほとんど家の中に居る生活だったが
ボランティアでまだつながりのあった小学校の保健の先生がたまに外に連れ出してくれた。


「あなたは自分で自分を大切にしなくてはいけない。」

そんなことを言われた。
これまで自分を大切にするなんて考えたことがなく、両親を苦しませて申し訳ないという思いばかりが積もる自分にかけてもらった温かい言葉。

どうすれば自分を大切にするということなのか分からない。

大切に出来ない自分にイライラもした。
どこか頭の中にその言葉は残ったまま
30歳を過ぎてもいまいちわからないままだった。
コーチングに出会ってなかったら未だに分かってないかもしれない。

友達

学校を辞めるまで、私のことを親友だと言ってくれる友達のことも本音で話せないような遠い存在のように思っていた。

学校に行けずに、家にこもるようになるとわざわざバスに乗って会いに来てくれた。
「大丈夫?待ってるよ。」
そんなふうに声をかけてもらえることが
こんなに嬉しいことだとは思わなかった。
自分で友人との関係に線を引いてたということに深く気づかされた。
話す前から、きっとわかってもらえないだろうと諦めていた。
すぐに何でも話したりできなかったけど、
友達の温かさを感じられるようになった。
今でも友達の存在を大切に思えるのは
この経験のおかげ。

単位制高校

入ってみたら、ほんとに色んな人がいた。
16歳で母親になった人。
おじいちゃんになって社会人終えてから学ぼうと入学した人。
夢のためには普通の高校にいくより早道だと意志をもって入学してきた人。
いわゆるヤンキーもたくさんいた。

前に通っていた高校は、みんな似たような経歴だったから、
こんなにも人生が分かれるのかと不思議な感覚だった。
みんなと仲良くしなくちゃいけないと必死だった私も、この高校では、あまりに嗜好が違う人たちを前にそんな気持ちも手放せた。
先生たちとの距離も前より近かった。
職員室に自由に入ることができた。
ただただ私のことを受け止めてくれる先生が居て、気が付くといつも話に行っていた。
否定せず話を聞いてもらうってことが私にとってはとても特別で幸せだった。
聞いてもらうことの大切さはコーチになった今でも実感している。

いい子

新しい高校では、授業が崩壊している教科もあった。
授業を聞かせようと必死な先生と
それをバカにする生徒。
ある時、先生からアンケートがあった。
授業中の態度に対するものだったと思う。

授業を聞く聞かないは生徒によるものだけど、
先生の声が聞こえると良いと思うとかそんなことを、書いて出した。

その数日後、先生から「もっと本音を書けばいいのに。ほんといい子ね。」と、ちょっと嫌味のように言われた。

割と本音だったけど、「いい子」って言われるのはバカにされてるような気持ちになった。
授業を荒らしている子達のほうが、自分らしく生きてて「悪い子」なんだけど羨ましい気もした。
やっぱり授業荒らしたりはしたくないけど、
楽しそうにしている子達に羨ましさはずっと感じていた。
大人になっても、正しいっぽいことを言うのをためらっていたのはこのときの経験もあるのかもしれない。

【大学時代】

一人暮らしスタート

浪人は認めてもらえず、センターの点数から行けそうな大学へ進学。
入るまで何の勉強をするのかもよくわかってなかった。
でも、親元を離れて一人暮らしをすることに少しワクワクした。

自分のことを誰も知らない場所で新しい生活スタート。

高校に行けなくなったことを恥ずかしいと思っていた私は、
これまでの経歴を無いことに出来るこの環境を嬉しくも思った。
最初こそ寂しさを感じたものの、
両親の喧嘩の声が聞こえない静かな夜は居心地が良かった。
好きなように出来ることの幸せを初めて感じた。

目標

今度こそストレートで大学を卒業する。
これは、私の目標だった。
最初はただ卒業することだけが目標。
4年で卒業出来れば、高校にいけなくなった私でもみんなと同じ社会人としてのスタートラインに立てると思った。
1年目は週2回バイトをするだけで、毎日学校に行くことを目標にしていた。
でも、1年も経つと学生生活に余裕も出てきて吹奏楽部に入部。
高校でも遊び程度にしか演奏していなかったので、大学の練習はかなりハードだった。

平日週3回18:00-20:30と土曜日は13:00-18:00の練習。

それに加えてやり始めると一番になりたい気持ちがあって多いときには12時間練習した。
精神的にも体力的にもかなりきつく、途中で辞めることも考えた。
最初は大学を卒業することが目標だったのに、この頃にはここで辞めたらまたダメになってしまうと部活を辞めることが出来なくなっていた。
つらい時期もあったが、仲間にも恵まれ、最終的に全国大会に行けたことは私にとっては「頑張ったら出来る」と自信になった。

就職活動

大学4年間はあっという間に過ぎ、就活の時期になった。
ただ卒業することだけを考えていた私に、急に現実が突き付けられた感じがした。
母があんなに苦しそうにしていた社会人に、こんなにメンタルの弱い私がなれるんだろうか。
何になりたいというよりは、入れそうな会社を必死で探した。
そんな準備の仕方が見抜かれたのか数か月は全く受からなかった。
その後は、就活のやり方を身に着けてどうにか内定を得た。
人生の大きな決定のタイミングなのに、
自分で決める感覚がなかった。
こんな自分でも働かせてもらえる場所を探して何とか見つけた感覚だった。

【社会人】

社会人

社会人になってすぐに感じたこと。
これまでは大人の言うことを聞くように言われていたのに
会社に入ったら急に「あなたはどう思うの?」と言われるってこと。
言いつけを守ることで生きていた私は、
途端にどうしたらいいか分からなくなった。
会社のために行動したい気持ちはある、でもどうしたらいいのか分からない。
それでも高校の時みたいに行けなくなるのが怖くて毎日必死で席に座っていた。
そんな不器用な私にイライラする人もいて、必要以上に厳しい言葉を浴びせられることもあった。
もう辞めちゃったほうがいいんじゃないかという気持ちと
何もない私が辞めていく場所なんて無いという気持ちでずっと揺れ動いていた。
毎晩泣いて、朝になると必死で自分を奮い立たせて会社に向かった。

あたたかい家庭

あたたかい家庭というものにずっと憧れがあった私。
友人家族に憧れていたんだと思う。
いろんな逆境があっても夫婦で寄り添って子どもたちを支えていた友人の両親。
そんな場所があったら、
私も自分の居場所を見つけられるんじゃないかと思っていた。
会社員生活にも嫌気がさしていた私は余計に結婚して生活を変えてしまいたい気持ちになっていた。
そんな願いが通じたのか、
この人とならあったかい家庭が築けると確信した旦那さんと26歳で結婚。
28歳で第一子を出産。
旦那さんとは何でも話し合うことができ、思い描いていたような温かい家庭を創ることが出来た。


子どもが生まれ、母になったことで生活の順位は完全に子ども優先になった。

自分自身がもっと両親仲が良い温かい家庭で育っていたらもっと自分の人生は違っていたんじゃないか、そんな気持ちがあったから
温かく子どもを大切にしたいと生まれる前に強く思っていた。

子どものためにと生まれる前から育児書を読み漁った。

その中には母親と子どもの関係性の重要さが説かれていた。
「何よりも子どもを大切にしよう」
そう思って始まった育児生活。
自分の時間全部を捧げているような感覚で毎日過ごしていた。

赤ちゃんの頃は毎日ベビーマッサージしたり、絵本を何冊も読んだり、
話しかけたり、色んなものを触らせたり、、出来る限りのことをした。

お医者さんに問題があると言われたわけじゃないのに、月齢ごとの指標より劣っているものがあると自分のせいなんじゃないかと、
必死で本やネットで知り得た知識を使って子どもにアプローチを繰り返した。


でも、子どもの気質もあって言われたことを素直にやることがとても苦手。

私は、母に叱られたら怖くてすぐに言うことを聞いていたけどどんなに叱っても言うことを聞かない。
むしろ言い返してくる。

保育園の先生にも「あまのじゃくですね。」と言われる始末。
温かく子どもを育てたい気持ちの裏に
そうやって育てたら、成績も良くて運動も出来て優秀な子どもが育つんじゃないかという気持ちがあった。

どこか疲れた表情…

出来る限り手を尽くしているつもりなのに、前進しない育児と特に成果も挙げられず働いている意味があるのかと思いながら通う仕事。
「何かいいことないかな。」がこの頃の口癖だった。

何もできない自分が自分のことなんて我慢するしかないと
コンビニで30円のお菓子を買うのもためらうようになった。
旦那さんには「頑張ってるんだから。」と言ってもらえていたのに聞こえてなかった。

好きなようにおやつを買ってきて、
のんびりしている旦那さんにイライラもした。
この頃は子どもの夜泣きもひどくて寝不足も続いていた。


それでも、旦那さんが思いやりのつもりで家事を手伝おうとすると、
愛情とは受け取れなかった。
できない自分をつきつけられているような気持ちになって、「ありがとう。」が言えなかった。
「もういいよ。」と冷たく言い放って、それ以上手伝ってもらうことを拒否したりした。

二人目

やっぱり子供は可愛いと思うときもあった。
そして、自分自身がひとりっ子で両親の視線が自分だけに向いている感じが嫌だったから、絶対に子どもは二人は欲しいと思っていた。
念願叶って待望の次男が生まれた。
住んでいる自治体では育休を取ると上の子は退園しないといけない。
産後2ヶ月過ぎて退園となった。
3歳の長男と0歳の次男を一人で見なくてはいけなくなった。
子どもの将来が自分に委ねられている気持ちになって毎日が緊張の連続だった。
今日も子どものために頑張ろうと思い朝が始まる。


公園に子育て広場に色々なところに連れ出して夕方になる。

だんだん疲れてイライラしてくる。

夜になってちょっと子どもが言うことを聞かないと大声で怒鳴る。
寝顔に謝る。明日こそは優しい母親でいようと誓う。


そんな毎日で、全く気持ちの余裕もなかった。
相変わらず「あまのじゃく」な長男に振り回されて、毎日思い通りにならない。
このままだと子どもの将来が不安でたまらない。
でも、どうしたらいいのか分からないまま育休が終わった。

長男が小学生に

長男6歳、次男3歳のときに3番目の男の子が生まれた。
長男が年長の冬だった。
家族が増えると子どもたちは気持ちが不安定になる。
保育園での喧嘩も増えた。
でも、それは次男のときに経験済みだったから
時間が解決してくれるだろうと思っていた。

春になって長男が小学校に上がる頃、ますます反抗的になった。

毎日の持ち物の準備、宿題に取り組むまでの間に癇癪を起こす。

クラスの友達と喧嘩。
学校の先生から毎日のように電話がかかった。
「この時期に忘れ物する子はいません。」
「宿題の提出がないです」
「友達と喧嘩をしたので指導しています」
自分の子育てを否定されているような気持ちになり、辛かった。
それでますます子どもに厳しくするようになった。

子どもはますます反抗的になった。
なんとかこの毎日を変えたい。

そう思って探している時に、「子どもコーチング」という言葉に出会った。
この時はまだ「コーチング」を学べば子どもに言うことを聞かせられるかもしれない。
そんな気持ちだった。
とにかく学びの場に飛び込んだ。

ライフコーチングと出会って

コーチングに出会って

講座の最初に「シャンパンタワーの法則」を知った。
これが自分にとって衝撃で、確かに子どもが生まれてから「自分を満たす」なんて考えたことも無かった。
考えてみても自分を満たすなんて、どうしたらいいか全く分からなかった。
ひとまずコンビニで欲しいおやつを買ってみるところから始めた。

我慢する生活が長くて、欲しいおやつを
考えることも難しかったが、とにかく心が動いたものを買ってみた。

自分の気持ちが少し満たされた感じがした。

そのおかげでほんの少し子どもに優しくできた。

コーチングの学びを進めていくと
子どもとの会話も「コーチング」の手法を使うことで以前よりずっと前向きになった。
親の意見を一方的に伝えるんじゃなくて、子供自身が自主的に色々なことに取り組めるように一緒に考えることができるようになった。
子どもに怒鳴ることもなくなった。
穏やかな気持ちで接することができた。

コーチングってすごい。色んな人に届けたい。

そんな気持ちも湧いてきた。

でも、まだ自分自身何か足りないような気がして
コーチングを受け始めた。

継続コーチング

そこであらためて自分の気持ちと向き合うようになった。

「今、どんな気持ち?」

聞かれたことがないような問いかけ。
自分のためにご機嫌を取れるようになったと思っていたが、まだまだ自分でも知らない感覚があるんだとわかった。
コーチングを継続して受けていく中で、周りの人のためと言いながら
自分の幸せを選ぶ努力を自分でしてこなかった自分に気づいた。


自分の幸せを選ぶことで家族が幸せになるのではないかと思い始めた。
数年前なら想像もつかなかった、一人で2拍3日の東京旅行に飛び出したり、
子どもとはいけないオシャレなカフェに出かけたりするようになった。
家族は私を応援してくれた。
自然の中で過ごすことが大好きだと感じることで
家族とキャンプに行く楽しみも満喫できるようになった。

お友達との京都旅行にて

さらに学ぶ

もっとコーチングを学んでみたい。
そこから、ライフコーチワールドというコーチングスクールに飛び込んだ。
月1回丸1日の対面講義は、私にとってはかなりチャレンジングな経験だった。
何しろ子どもが生まれてから家を空けたことがなかった。


子どもにスクールに入っていいか相談すると
「やりたいことはやったらいいよ。」


そう、言ってくれた。

子どもの幸せばかり考えてきたが、
子どもが私の幸せを応援してくれるんだと
強く感じた。

1日目の講義のあとは、電車に乗ったあと
座り込んでしまうくらい、つかれ果てていた。

それくらい集中していたんだと思う。

ここで過去に向き合い、恥ずかしいと思っていた不登校のことも、当時の自分には必要だったのだと思えるようになった。

ただそれだけのこと。

それでも恥ずかしいとか、そんな自分が情けないとか思ったままでは、人生楽しもうなんて発想にならなかった。

どんな環境でも自分のために生きていくことが出来るんだとそう強く実感し、
もっと多くの人が自分の幸せのために生きていくことを応援するためにライフコーチを続けている。

幼少期

1985年 福岡生まれ。
父、母、私の三人家族。一人っ子。
生まれてくるのが女の子と分かって、父は「女か…」と残念そうに言ったそう。
母は女の子で良かったと言ってくれたものの、自分が男の子に生まれていたら、家族の仲も違うのかなと思っていた。

家庭環境

父と母は毎晩喧嘩していて、物心つく頃には、父母の仲の悪さを感じて、ただただ悲しく思っていた。
父と母の間に漂う空気が張り詰めたような冷たい感じを察知すると身体が硬くなって、どんな顔をしたらいいか分からず、息を潜めてただ置物のように座っていた。
そんな中で育ったからなのか、幼稚園に入ってすぐの面談で先生から「表情の乏しい子」とに指摘を受けたそう。
ただ、小学校にあがるころには表情のことで指摘されるようなことはなく、笑顔で過ごせるようになっていた。

職場のバックヤードで待つ幼稚園時代

母は私が2歳になった時から働き始めた。
私の一番古い記憶は、真っ暗な道を母に背負われて歩く記憶。保育園の帰り道だと思う。


最初は保育園だったが、4歳から幼稚園に行くようになった。幼稚園は母の職場の近く。住んでいたところからはバスで30分。幼稚園が終わると母の職場のバックヤードで静かに待った。
空気を読むことが当たり前になっていた私は、特に誰かに指図されたわけではないが職場に行って母の仕事を邪魔してはいけないと感じていた。

(子どもを産んでみて思ったけど、4歳の子供がお菓子やテレビがあったとしても数時間静かに待っているってなかなか出来ることじゃない。当時の自分の必死さを感じます。)

当時を振り返って、私がじっとしていられたのは、働く母をかっこいいと尊敬していたから邪魔をしたくなかったし、お金のことで色々困ることがあって働かざるを得ないこと聞いていたからだと思う。また母からは仕事の愚痴も聞いていたし、朝は吐き気がするようで、吐いている姿も見かけていて、そんな母を困らせるなんてできないと思っていた。

そして、母に叱られるのは本当に嫌だった。叱られるとお腹を壊して寝込むくらい。
一人っ子で、母親しか頼る人が居ない自分にとって怒られると張り詰めた時間が続き解決の方法が分からなかった。

だから、静かに待っていた。

父に関しては仕事や趣味で家に居ないことも多く、母からの話で、私は父が母を苦しめていると思うようになっていた。

【小学校時代】

新しい環境での暮らし

小学校は、自宅近くの公立に進学。
幼稚園は母の職場の近くだったから、知っている友達が一人もいない中の学校生活スタート。


鍵っ子として学校生活スタートをした。女は家で家事という文化が残っている時代だったから、専業主婦のお家が多かった。
自分には友達も居ない、家に帰っても誰も居ない。まわりのクラスメイトはお母さんが待ってくれているのに。

初めて人と比べて、寂しさを感じた。

電気のついてない、少し薄暗い家に居るのがイヤだった。一人で家に居るのは心細くて、母が帰る頃になるとバス停で母を待っていた。

学校でも、うまく馴染めず、小1の間はずっと「おのさん」と呼ばれた。
みんなが〇〇ちゃんと呼び合う中、私だけ「おのさん」と呼ばれていて、距離を感じる。
それでもやっと放課後に遊べる友達が出来て、毎日家に帰るとすぐにランドセルを置いて出かけた。
2年生になる頃には、わざとふざけて明るくふるまうと親しんでもらえることに気づき始めた。やっと「おのさん」から「おのちゃん」に脱出した。すごく嬉しかった。

優等生としての優越感

小学校に入るまで文字も書けなかったが、学校で学ぶことは純粋に楽しかった。特に苦労もせず先生の言うことを聞いていればテストで満点が取れた。褒められるとうれしい。
この感覚を味わったのは小学校に入ってから。
母は読書家で、本ならいくらでも買ってくれた。
母の本を読む姿に憧れて、たくさんの本を読んだ。小学校のとき大好きだったのは「チャーリーとチョコレート工場」。
褒められるのが嬉しくて、勉強だけでなく、高学年になると委員会活動にも積極的に参加した。
小6最後の運動会は選手宣誓もして俗にいう優等生という感じの小学生になっていった。

中学受験

4年生から中学受験のために塾に通い始めた。
田舎の小さな小学校では成績が上位で勉強には自信があったけど塾に入ると自分よりはるかに賢い人がいると気づいた。
でも、勉強すれば私でも追いつけるんじゃないかと自信はあった。

あいかわらず小学校では勉強に困ることは無く、自分の居場所がある感じがして安心する場所だった。

その頃、母は腹痛で寝込むことが増えた。病院を受診したところ難治性の病名を診断され、食事制限が始まった。
卵と野菜しか食べられない母を見ながら何も出来ない自分の無力さを感じた。

母を少しでも安心させようと、小さな自分に出来るのなんてせいぜい勉強することだった。
受験を続けるか?と聞かれたとき、一瞬小学校の友達の顔が思い浮かんだ。でも、なんとなく勉強が出来る自分でいたほうが安心させられる気がして受験すると言った。

母の入院生活も始まり、父方の祖母が面倒を見てくれるようになった。
「あなたは外孫だから。」と小さい頃から言われていた私にとって、祖母は甘えられる存在ではなく、粗相しないように緊張する生活だった。

母もなんとか無事に退院した。寝込むことは多かったけど、家にいてくれるだけで安心だった。
成績が大幅に上がるなんてことはなかったけど、なんとか志望校に合格。
中学から進学したのが近しい親族では私だけだったので優越感もあった。

母を安心させられると思ったと同時に自分の自信にもなった。

親友

とにかく友達がほしいというところから始まった小学校生活だったが、小4くらいから仲良く本心を話せる友人が出来た。家族ぐるみで仲良くしてもらい、我が家とは違って夫婦協力して過ごしている親友の両親にとても憧れた。

この時の感覚は大人になっていても残っていて、私の結婚した後の家庭の理想像もここから生まれている。

【中学時代】

居るけど居ない友達

憧れの第一志望に入学してすぐ気づいたのが頑張るって恥ずかしいらしいということ。
クラス委員を決めるとき、迷わず手を挙げようとしたけど先に挙げた人を「よっ!優等生!」と茶化すような声が上がった。

小学校までは「やりたい」って積極的に言うことが褒められた。

だけど、ここでは違うらしい。

系列の小学校から上がってきた子たちが幅を利かせる教室の中で、クラスメイトに目を付けられないように気を付けるようになった。
いつの間にか身に着けた自分なりの立ち回り方で友達はたくさんできたけど、心を許せる友達は少なかった。
中学一年生の時、学校からのアンケートで友達を書くように言われた。誰も書かないと心配されると思い、悩みに悩んで一人だけ書いた。

みんなが自分を友達だと認識している自信が無かったから。

担任との面談でものすごく心配された。
「あなたのことを書いている人はたくさんいるのに。この子もこの子も書いてくれてるわよ。」そう言われた。

安心したけれど、本心を話せる人は居なかった。
両親の仲は相変わらず悪く、夜な夜な怒鳴り合う声が聞こえてきて、家に居ても学校に居ても何となく居心地が悪かった。

部活動

本当は吹奏楽部に入りたかったけど、運動が苦手なことがコンプレックスだった母から「運動部に入ったほうがいい」と言われ、
しぶしぶテニス部に入ることにした。

テニス部には、全てを牛耳る同級生のボスがいた。その子に嫌われると順番にいじめられる。

本当は嫌なのに、自分に矛先が向くのがイヤでうまく立ちまわっている自分も嫌だった。
でも、気が付いたら夜な夜な他の部員から電話がかかってきて、みんなの本心を聞く役回りになってたな。ついつい話を聞いてしまうところは、今の私につながってるのかもしれない。

そんなに好きでもないテニス。

根性だけはあって、やると決めたら練習はさぼりたくなかった。
練習したかいもあって、中学2年生のときは地区大会3位入賞を果たす。
結果を出してみて「もうこれ以上無理、続けられない」と思った。
ボスに嫌われないように立ち回る自分、好きでもない練習をやり続けることが苦しかった。

でも、ラケットもシューズも買ってもらっていた。
これまで自分がこうしたいと伝えたことが少なかった私は、何て言えばいいか散々悩んだけれど、テニスを続ける方が苦しくなっていて、やっとの思いで、テニスを辞めることを母に相談した。
「ラケットもシューズも買ったのに。」少し怒った風に言われた。

わがままを言ってしまった自分が申し訳なく、どうして我慢できないのか自分を責めた。
でも、最終的には「好きにしたら。」と許してもらえ、やっと自分が好きなことが出来るようになった嬉しさと、母の想いを汲んで我慢できなかった自分への苛立ちと両方を抱えながら吹奏楽部へ途中入部することにした。

吹奏楽部

複雑な気持ちで始まった吹奏楽部生活だったが、
希望していたサックス担当になり、同級生たちともすぐに打ち解けた。


人数も少なく、サックスパートが少なかったのでかなり喜ばれた。
やりたいことを始められたという充実感があった。
最初こそ上手く音が出なくて苦しんだけど、音が出せる、楽譜通りに演奏できる、音程を合わせられる等、一つ一つ進歩することが嬉しくもあった。
でも、楽器や演奏に対して自分の知識が付けばつくほど、同じパートの仲間と比べて焦るようになった。


同時期に途中入部して同じパートになった同級生は、最初からセンスがあると評判だった。
いっぽうで、私はセンスが無い。
「あなたが上手になるには、努力しかないわ。」
指導の先生からの言葉。


アドバイスだったが、私にはどうやっても越えられないものがあるように聞こえた。

大きな大会に出場できるような上手な学校ではない。
楽しく自分なりにやることも出来る場所だったが、当時の自分にはそんな風に捉えられなかった。
やるからには上手と言われるようになりたい。一番になりたい。
そんな気持ちがあった。
「センス」という自分が絶対に手に入れられないものと戦いながら、
学校から楽器を持ち帰り、家で週末に練習したり、
昼休みにも練習したり、出来る限りの努力をした。


下手ではない。でも飛び抜けてうまくはない。
やりたいことをやれば、きっと毎日楽しいと思っていた。
一番になれる気がしていた。
勇気を出して飛び込んではみたものの
頑張ってもどうにもならないものがあるということを突き付けられたような感覚だった。でもまだ必死でその現実と戦っていた。


中高一貫の学校に進学したので、中学3年生で引退することもなく
高校でも続けて吹奏楽部に入ることにした。

【高校生時代】

将来の夢

小学生の時に、初めて障害者ボランティアに参加した。
普段は遠出することが難しい障害者と健常者、みんなで旅行するイベント。
そこで、視覚障害者の方の目となって障害物を伝えるだけじゃなく、
その場所の様子を伝える補助をした。


「ありがとう。」って言われたことがすごく嬉しかった。

ボランティアすることで、自分が生きていることが承認されているような気持ちになった。
「ボランティアって自分のためにやってるんだよね。」そう言っているおじさんが居て、小学生ながらに深く納得した。
自分の役に立つ感覚が嬉しくて、高校生になってもずっとボランティアを続けていた。


「誰かの役に立つ仕事がしたい。」


学校では、医学部を目指す人も多く、自然とお医者さんになることで
「誰かの役に立つ仕事」が叶えられるように思えた。
お医者さんになれれば、優等生の自分も保たれる。
母の病気の役に立つかもしれない。
勉強すれば、夢はきっと叶う。
そう信じて、必死で勉強した。
中学、高校1年生と学年上位をキープし、それなりに優越感も味わってきた。
高校2年生、いよいよ大学受験がリアルに感じられるようになってきた。
合格するまで帰れない小テストに緊張し、
定期テストが恐ろしくて仕方が無かった。
周囲も勉強し始め、少しずつ下がっていく成績。
成績が下がる自分を許すことが出来なかった。
母の寝込んでいる日も多く、
「こんなお母さんでごめんね。」と言われると
「そんなことないよ。大丈夫だよ。」と言うしかなかった。
勉強に追い詰められて苦しい気持ちもぐっと飲み込んでこらえた。
家族との悩みなんてなさそうに見える友人たちに、自分の家族の状況を話す気にもなれず、ただただ勉強にしがみつく毎日だった。

高校2年生になったある日、通院して遅刻で学校に行く予定だった。
でも、学校の前に来たらバスから降りるのが怖くなった。
そのまま逃げるようにして家に帰ってしまった。
その日のことはあまり覚えていない。
でも、ただただ泣いていたように思う。

母もどうしたらいいか分からなかったのだろう、学校に行けなくなった私は
すぐに精神科に連れていかれ、うつ病の診断を受けた。
抗うつ薬の副作用で眠たくて仕方がない。
体重も増えた。
寝てるのか起きてるのか分からない日中を過ごし、夜になると目が冴えてくる。
といっても、考えるのは学校へ行けない不安やそのせいで将来がどうなるのかといった不安。

眠れない夜も増えた。

そんな体調の中でも、出来る限り勉強しようと机にかじりついていた。
文字を読んでもほとんど頭に入ってこないのに、このままでは自分の人生はおかしくなってしまうと必死だった。
保健室登校したり、行ける日は教室にも行ったが
季節は春から冬になった。
今思えばたった1年だけど、体感では何十年だった。
何度も頑張ったけどけっきょく出席日数が足りず退学することになった。
その間に神社に祈祷に行ったり、催眠療法に連れていかれたり、とにかくあらゆる手を尽くしてくれる母に申し訳なさと学校に行けないってそれほど駄目なことなんだという思いでいっぱいだった。

退学して数か月、運よく自宅からバスで通えるところに出来た単位制の高校に再入学。
ほんとは大検を取ってさっさと大学に行きたかった。高校に行けない自分と早くおさらばしたかった。
でも、こんな状態じゃ無理だと母に説得され少しずつ薬の量を減らしながら学校生活に戻っていった。

こんなに父や母に迷惑をかけてしまった自分が挽回するには、医学部に合格するしかない、自分のようにうつ病で苦しむ人を助けたい、そんな気持ちも芽生えた。再入学した高校は大学受験を目指している人向けではない。授業以外の時間にどうにか自分で勉強するしかなかった。
偶然にも大学受験を応援してくださる先生がいて、授業外で勉強を見てもらいながら頑張った。
応援してくれる、自分を信じてくれる人がいることはとても心強かった。


でも、残念ながらセンター試験で、医学部受験の夢は消えてしまった。

両親に「浪人させてほしい」お願いしたけど、学校中退したようなやつがと反対を受ける。ショックで1日中吐き続けた。

それと同時に、一度みんなと同じレールから外れると自分のやりたいことが出来ないんだな。そんな風に感じた。

自分を大切にする

学校に行けなかった間、ほとんど家の中に居る生活だったがボランティアでまだつながりのあった小学校の保健の先生がたまに外に連れ出してくれた。
「あなたは自分で自分を大切にしなくてはいけない。」そんなことを言われた。
これまで自分を大切にするなんて考えたことがなく、両親を苦しませて申し訳ないという思いばかりが積もる自分にかけてもらった温かい言葉。

どうすれば自分を大切にするということなのか分からない。

大切に出来ない自分にイライラもした。
どこか頭の中にその言葉は残ったまま30歳を過ぎてもいまいちわからないままだった。
コーチングに出会ってなかったら未だに分かってないかもしれない。

友達

学校を辞めるまで、私のことを親友だと言ってくれる友達のことも本音で話せないような遠い存在のように思っていた。

学校に行けずに、家にこもるようになるとわざわざバスに乗って会いに来てくれた。
「大丈夫?待ってるよ。」
そんなふうに声をかけてもらえることが
こんなに嬉しいことだとは思わなかった。
自分で友人との関係に線を引いてたということに深く気づかされた。
話す前から、きっとわかってもらえないだろうと諦めていた。
すぐに何でも話したりできなかったけど、友達の温かさを感じられるようになった。
今でも友達の存在を大切に思えるのは、この経験のおかげ。

単位制高校

入ってみたら、ほんとに色んな人がいた。
16歳で母親になった人。おじいちゃんになって社会人終えてから学ぼうと入学した人。
夢のためには普通の高校にいくより早道だと意志をもって入学してきた人。
いわゆるヤンキーもたくさんいた。

前に通っていた高校は、みんな似たような経歴だったから、こんなにも人生が分かれるのかと不思議な感覚だった。
みんなと仲良くしなくちゃいけないと必死だった私も、この高校では、あまりに嗜好が違う人たちを前にそんな気持ちも手放せた。
先生たちとの距離も前より近かった。
職員室に自由に入ることができた。
ただただ私のことを受け止めてくれる先生が居て、気が付くといつも話に行っていた。
否定せず話を聞いてもらうってことが私にとってはとても特別で幸せだった。
聞いてもらうことの大切さはコーチになった今でも実感している。

いい子

新しい高校では、授業が崩壊している教科もあった。
授業を聞かせようと必死な先生とそれをバカにする生徒。
ある時、先生からアンケートがあった。
授業中の態度に対するものだったと思う。

授業を聞く聞かないは生徒によるものだけど、先生の声が聞こえると良いと思うとかそんなことを、書いて出した。

その数日後、先生から「もっと本音を書けばいいのに。ほんといい子ね。」と、ちょっと嫌味のように言われた。

割と本音だったけど、「いい子」って言われるのはバカにされてるような気持ちになった。
授業を荒らしている子達のほうが、自分らしく生きてて「悪い子」なんだけど羨ましい気もした。
やっぱり授業荒らしたりはしたくないけど、楽しそうにしている子達に羨ましさはずっと感じていた。
大人になっても、正しいっぽいことを言うのをためらっていたのはこのときの経験もあるのかもしれない。

【大学時代】

一人暮らしスタート

浪人は認めてもらえず、センターの点数から行けそうな大学へ進学。
入るまで何の勉強をするのかもよくわかってなかった。
でも、親元を離れて一人暮らしをすることに少しワクワクした。

自分のことを誰も知らない場所で新しい生活スタート。

高校に行けなくなったことを恥ずかしいと思っていた私は、これまでの経歴を無いことに出来るこの環境を嬉しくも思った。
最初こそ寂しさを感じたものの、両親の喧嘩の声が聞こえない静かな夜は居心地が良かった。
好きなように出来ることの幸せを初めて感じた。

目標

今度こそストレートで大学を卒業する。
これは、私の目標だった。
最初はただ卒業することだけが目標。
4年で卒業出来れば、高校にいけなくなった私でもみんなと同じ社会人としてのスタートラインに立てると思った。
1年目は週2回バイトをするだけで、毎日学校に行くことを目標にしていた。
でも、1年も経つと学生生活に余裕も出てきて吹奏楽部に入部。
高校でも遊び程度にしか演奏していなかったので、大学の練習はかなりハードだった。

平日週3回18:00-20:30と土曜日は13:00-18:00の練習。

それに加えてやり始めると一番になりたい気持ちがあって多いときには12時間練習した。
精神的にも体力的にもかなりきつく、途中で辞めることも考えた。
最初は大学を卒業することが目標だったのに、この頃にはここで辞めたらまたダメになってしまうと部活を辞めることが出来なくなっていた。
つらい時期もあったが、仲間にも恵まれ、最終的に全国大会に行けたことは私にとっては「頑張ったら出来る」と自信になった。

就職活動

大学4年間はあっという間に過ぎ、就活の時期になった。
ただ卒業することだけを考えていた私に、急に現実が突き付けられた感じがした。
母があんなに苦しそうにしていた社会人に、こんなにメンタルの弱い私がなれるんだろうか。
何になりたいというよりは、入れそうな会社を必死で探した。
そんな準備の仕方が見抜かれたのか数か月は全く受からなかった。
その後は、就活のやり方を身に着けてどうにか内定を得た。
人生の大きな決定のタイミングなのに、
自分で決める感覚がなかった。
こんな自分でも働かせてもらえる場所を探して何とか見つけた感覚だった。

【社会人】

社会人

社会人になってすぐに感じたこと。
これまでは大人の言うことを聞くように言われていたのに会社に入ったら急に「あなたはどう思うの?」と言われるってこと。
言いつけを守ることで生きていた私は、途端にどうしたらいいか分からなくなった。
会社のために行動したい気持ちはある、でもどうしたらいいのか分からない。
それでも高校の時みたいに行けなくなるのが怖くて毎日必死で席に座っていた。
そんな不器用な私にイライラする人もいて、必要以上に厳しい言葉を浴びせられることもあった。
もう辞めちゃったほうがいいんじゃないかという気持ちと何もない私が辞めていく場所なんて無いという気持ちでずっと揺れ動いていた。
毎晩泣いて、朝になると必死で自分を奮い立たせて会社に向かった。

あたたかい家庭

あたたかい家庭というものにずっと憧れがあった私。
友人家族に憧れていたんだと思う。
いろんな逆境があっても夫婦で寄り添って子どもたちを支えていた友人の両親。
そんな場所があったら、私も自分の居場所を見つけられるんじゃないかと思っていた。
会社員生活にも嫌気がさしていた私は余計に結婚して生活を変えてしまいたい気持ちになっていた。
そんな願いが通じたのか、この人とならあったかい家庭が築けると確信した旦那さんと26歳で結婚。
28歳で第一子を出産。
旦那さんとは何でも話し合うことができ、思い描いていたような温かい家庭を創ることが出来た。


子どもが生まれ、母になったことで生活の順位は完全に子ども優先になった。

自分自身がもっと両親仲が良い温かい家庭で育っていたらもっと自分の人生は違っていたんじゃないか、そんな気持ちがあったから
温かく子どもを大切にしたいと生まれる前に強く思っていた。

子どものためにと生まれる前から育児書を読み漁った。

その中には母親と子どもの関係性の重要さが説かれていた。
「何よりも子どもを大切にしよう」
そう思って始まった育児生活。
自分の時間全部を捧げているような感覚で毎日過ごしていた。

赤ちゃんの頃は毎日ベビーマッサージしたり、絵本を何冊も読んだり、話しかけたり、色んなものを触らせたり、、出来る限りのことをした。

お医者さんに問題があると言われたわけじゃないのに、月齢ごとの指標より劣っているものがあると自分のせいなんじゃないかと、
必死で本やネットで知り得た知識を使って子どもにアプローチを繰り返した。


でも、子どもの気質もあって言われたことを素直にやることがとても苦手。

私は、母に叱られたら怖くてすぐに言うことを聞いていたけどどんなに叱っても言うことを聞かない。
むしろ言い返してくる。

保育園の先生にも「あまのじゃくですね。」と言われる始末。
温かく子どもを育てたい気持ちの裏に
そうやって育てたら、成績も良くて運動も出来て優秀な子どもが育つんじゃないかという気持ちがあった。

どこか疲れた表情…

出来る限り手を尽くしているつもりなのに、前進しない育児と特に成果も挙げられず働いている意味があるのかと思いながら通う仕事。
「何かいいことないかな。」がこの頃の口癖だった。

何もできない自分が自分のことなんて我慢するしかないとコンビニで30円のお菓子を買うのもためらうようになった。
旦那さんには「頑張ってるんだから。」と言ってもらえていたのに聞こえてなかった。

好きなようにおやつを買ってきて、のんびりしている旦那さんにイライラもした。
この頃は子どもの夜泣きもひどくて寝不足も続いていた。


それでも、旦那さんが思いやりのつもりで家事を手伝おうとすると、愛情とは受け取れなかった。
できない自分をつきつけられているような気持ちになって、「ありがとう。」が言えなかった。
「もういいよ。」と冷たく言い放って、それ以上手伝ってもらうことを拒否したりした。

二人目

やっぱり子供は可愛いと思うときもあった。
そして、自分自身がひとりっ子で両親の視線が自分だけに向いている感じが嫌だったから、絶対に子どもは二人は欲しいと思っていた。
念願叶って待望の次男が生まれた。
住んでいる自治体では育休を取ると上の子は退園しないといけない。
産後2ヶ月過ぎて退園となった。
3歳の長男と0歳の次男を一人で見なくてはいけなくなった。
子どもの将来が自分に委ねられている気持ちになって毎日が緊張の連続だった。
今日も子どものために頑張ろうと思い朝が始まる。


公園に子育て広場に色々なところに連れ出して夕方になる。

だんだん疲れてイライラしてくる。

夜になってちょっと子どもが言うことを聞かないと大声で怒鳴る。
寝顔に謝る。明日こそは優しい母親でいようと誓う。


そんな毎日で、全く気持ちの余裕もなかった。
相変わらず「あまのじゃく」な長男に振り回されて、毎日思い通りにならない。
このままだと子どもの将来が不安でたまらない。
でも、どうしたらいいのか分からないまま育休が終わった。

長男が小学生に

長男6歳、次男3歳のときに3番目の男の子が生まれた。
長男が年長の冬だった。
家族が増えると子どもたちは気持ちが不安定になる。
保育園での喧嘩も増えた。
でも、それは次男のときに経験済みだったから時間が解決してくれるだろうと思っていた。

春になって長男が小学校に上がる頃、ますます反抗的になった。

毎日の持ち物の準備、宿題に取り組むまでの間に癇癪を起こす。

クラスの友達と喧嘩。
学校の先生から毎日のように電話がかかった。
「この時期に忘れ物する子はいません。」
「宿題の提出がないです」
「友達と喧嘩をしたので指導しています」
自分の子育てを否定されているような気持ちになり、辛かった。
それでますます子どもに厳しくするようになった。

子どもはますます反抗的になった。
なんとかこの毎日を変えたい。

そう思って探している時に、「子どもコーチング」という言葉に出会った。
この時はまだ「コーチング」を学べば子どもに言うことを聞かせられるかもしれない。
そんな気持ちだった。
とにかく学びの場に飛び込んだ。

ライフコーチングと出会って

コーチングに出会って

講座の最初に「シャンパンタワーの法則」を知った。
これが自分にとって衝撃で、確かに子どもが生まれてから「自分を満たす」なんて考えたことも無かった。
考えてみても自分を満たすなんて、どうしたらいいか全く分からなかった。
ひとまずコンビニで欲しいおやつを買ってみるところから始めた。

我慢する生活が長くて、欲しいおやつを
考えることも難しかったが、とにかく心が動いたものを買ってみた。

自分の気持ちが少し満たされた感じがした。

そのおかげでほんの少し子どもに優しくできた。

コーチングの学びを進めていくと子どもとの会話も「コーチング」の手法を使うことで以前よりずっと前向きになった。
親の意見を一方的に伝えるんじゃなくて、子供自身が自主的に色々なことに取り組めるように一緒に考えることができるようになった。
子どもに怒鳴ることもなくなった。
穏やかな気持ちで接することができた。

コーチングってすごい。色んな人に届けたい。

そんな気持ちも湧いてきた。

でも、まだ自分自身何か足りないような気がしてコーチングを受け始めた。

継続コーチング

そこであらためて自分の気持ちと向き合うようになった。

「今、どんな気持ち?」

聞かれたことがないような問いかけ。
自分のためにご機嫌を取れるようになったと思っていたが、まだまだ自分でも知らない感覚があるんだとわかった。
コーチングを継続して受けていく中で、周りの人のためと言いながら自分の幸せを選ぶ努力を自分でしてこなかった自分に気づいた。


自分の幸せを選ぶことで家族が幸せになるのではないかと思い始めた。
数年前なら想像もつかなかった、一人で2拍3日の東京旅行に飛び出したり、子どもとはいけないオシャレなカフェに出かけたりするようになった。
家族は私を応援してくれた。
自然の中で過ごすことが大好きだと感じることで
家族とキャンプに行く楽しみも満喫できるようになった。

お友達との京都旅行にて

さらに学ぶ

もっとコーチングを学んでみたい。
そこから、ライフコーチワールドというコーチングスクールに飛び込んだ。
月1回丸1日の対面講義は、私にとってはかなりチャレンジングな経験だった。
何しろ子どもが生まれてから家を空けたことがなかった。


子どもにスクールに入っていいか相談すると
「やりたいことはやったらいいよ。」


そう、言ってくれた。

子どもの幸せばかり考えてきたが、
子どもが私の幸せを応援してくれるんだと
強く感じた。

1日目の講義のあとは、電車に乗ったあと
座り込んでしまうくらい、つかれ果てていた。

それくらい集中していたんだと思う。

ここで過去に向き合い、恥ずかしいと思っていた不登校のことも、当時の自分には必要だったのだと思えるようになった。

ただそれだけのこと。

それでも恥ずかしいとか、そんな自分が情けないとか思ったままでは、人生楽しもうなんて発想にならなかった。

どんな環境でも自分のために生きていくことが出来るんだとそう強く実感し、
もっと多くの人が自分の幸せのために生きていくことを応援するためにライフコーチを続けている。